2010年06月17日
『先入観』
ここ最近、『先入観』について時々考えることがあります
。
『先入観』について何を考えるかというと、日常生活中で、いかに『先入観』に基づいた判断をしてるかということです。
これは、あくまでも例ですが、例えば、自分が加入してるA社という保険会社の自分の保険を担当してくれてる人Bさんから電話が携帯に掛かってきて、携帯の表示が”A社Bさん”と表示されたのを見ると、電話に出る前から、新しい保険を勧められるのでは・・・・?という思いが湧いてきます。
電話に出るまでは、Bさんが新しい勧めるかどうかは、全く分からないに、頭では”新しい保険を勧められたらどうしよう?”などど思いながら電話に出てるのです。
実際、電話に出たら『先入観』通り新しい保険の話かもしれないし、全く違う話かもしれません。
電話に出るまでは、分からない未来を、電話に出る前から携帯の表示を見たとたん反射的に予測してます。
それ自体、別に悪いことではないと思うし、社会生活を送る上で必要だと思うのですが、このように、過去の経験や外から得た情報、知識に基づいて、私達は、意識的にもしくは、無意識にいろんな物事を予測しながら『先入観』を持って生きているのが現実ではないかと思います。
ウィキペディア フリー百科事典で『先入観』を調べてるみると(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%88%E5%85%A5%E8%A6%B3)・・・・・『先入観』とは”対象認識において、誤った認識や妥当性に欠ける評価・判断などの原因となる知識、または把握の枠組みを言う。人間は、通常、直接に対象に出会う以前に、他者の言葉とか、メディアの風説、書物などから得た、不十分な知識や、そこから導かれる対象に対する態度・把握の様式を持っているもので、その結果として、ネガティブな認識や対象に対する評価がもたらされるようなものを特に「先入観」という。
・人間の認識の主観性
人間の認識や認識に基づく行為はすべて、何らかの意味で、直接の対象認識の前に、予備的な知識や、認識・把握の枠組みが存在するものである。哲学的には、客観である「もの自体」は認識できず、主観の「認識形式」というフィルターを常に通じて、人間の対象認識や、世界に対する行為は成立している。
しかし、このような主観認識のフィルターは、人間が世界を認識するにおいて、また他者と社会生活を送り、コミュニケーションを通じるにおいて、むしろ必要なものである。「すぐに腕力をふるい、他人の言葉に耳を貸さない」と一般に噂されている人と、何か交渉する必要ができた場合など、この「予めの知識」に基づいて、慎重な言動を取ることで、対人接触がうまく進むということもある。
・有用性とネガティブな面 として
なにごとか未知のものに対し、予めに知識や評価の枠組みがあるのは、一般的には、生きて行く上で有用である。しかし、予めの知識や評価の枠組みなどが、著しく客観性に欠けるもので、実際のありようと懸け離れている場合は、問題が起こることがあり、このような事前の知識や評価の枠組みは、「偏見」とも称される。
先入観は必ずしも偏見とは限らないが、事前に間接的な予備知識や評価を持っていることで、現実のありようについて、間違った認識や、妥当性に欠ける評価・把握をもたらすことがある。「すぐに腕力をふるい、他人の言葉に耳を貸さない」と噂されている人と、実際に会い、一緒に仕事をしてみると、外見がやくざぽいので、「腕力をふるうような」感じがするだけで、実際は、腕力などふるうことはなく、またいかにも、話しかけにくい雰囲気であるが、実際には、寡黙なだけで、十分話し合いが可能であるということが分かったりすることがある。
とありました。
ウィキペディア フリー百科事典の『先入観』”有用性とネガティブな面”の説明の様に、自分の考えや判断が『先入観』に左右されてないか、または、『先入観』によって主観的になっていなかを意識的に見分けるコトもありのままに物事を見たり、聞いたりしようとする為に大切だと思いました。

ヨーガでは、その時の目の前の事象をクリスタルの様にありのまま映し出す心の状態が目指すべき心の状態と考えられてるそうです。

『先入観』について何を考えるかというと、日常生活中で、いかに『先入観』に基づいた判断をしてるかということです。
これは、あくまでも例ですが、例えば、自分が加入してるA社という保険会社の自分の保険を担当してくれてる人Bさんから電話が携帯に掛かってきて、携帯の表示が”A社Bさん”と表示されたのを見ると、電話に出る前から、新しい保険を勧められるのでは・・・・?という思いが湧いてきます。
電話に出るまでは、Bさんが新しい勧めるかどうかは、全く分からないに、頭では”新しい保険を勧められたらどうしよう?”などど思いながら電話に出てるのです。
実際、電話に出たら『先入観』通り新しい保険の話かもしれないし、全く違う話かもしれません。
電話に出るまでは、分からない未来を、電話に出る前から携帯の表示を見たとたん反射的に予測してます。
それ自体、別に悪いことではないと思うし、社会生活を送る上で必要だと思うのですが、このように、過去の経験や外から得た情報、知識に基づいて、私達は、意識的にもしくは、無意識にいろんな物事を予測しながら『先入観』を持って生きているのが現実ではないかと思います。
ウィキペディア フリー百科事典で『先入観』を調べてるみると(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%88%E5%85%A5%E8%A6%B3)・・・・・『先入観』とは”対象認識において、誤った認識や妥当性に欠ける評価・判断などの原因となる知識、または把握の枠組みを言う。人間は、通常、直接に対象に出会う以前に、他者の言葉とか、メディアの風説、書物などから得た、不十分な知識や、そこから導かれる対象に対する態度・把握の様式を持っているもので、その結果として、ネガティブな認識や対象に対する評価がもたらされるようなものを特に「先入観」という。
・人間の認識の主観性
人間の認識や認識に基づく行為はすべて、何らかの意味で、直接の対象認識の前に、予備的な知識や、認識・把握の枠組みが存在するものである。哲学的には、客観である「もの自体」は認識できず、主観の「認識形式」というフィルターを常に通じて、人間の対象認識や、世界に対する行為は成立している。
しかし、このような主観認識のフィルターは、人間が世界を認識するにおいて、また他者と社会生活を送り、コミュニケーションを通じるにおいて、むしろ必要なものである。「すぐに腕力をふるい、他人の言葉に耳を貸さない」と一般に噂されている人と、何か交渉する必要ができた場合など、この「予めの知識」に基づいて、慎重な言動を取ることで、対人接触がうまく進むということもある。
・有用性とネガティブな面 として
なにごとか未知のものに対し、予めに知識や評価の枠組みがあるのは、一般的には、生きて行く上で有用である。しかし、予めの知識や評価の枠組みなどが、著しく客観性に欠けるもので、実際のありようと懸け離れている場合は、問題が起こることがあり、このような事前の知識や評価の枠組みは、「偏見」とも称される。
先入観は必ずしも偏見とは限らないが、事前に間接的な予備知識や評価を持っていることで、現実のありようについて、間違った認識や、妥当性に欠ける評価・把握をもたらすことがある。「すぐに腕力をふるい、他人の言葉に耳を貸さない」と噂されている人と、実際に会い、一緒に仕事をしてみると、外見がやくざぽいので、「腕力をふるうような」感じがするだけで、実際は、腕力などふるうことはなく、またいかにも、話しかけにくい雰囲気であるが、実際には、寡黙なだけで、十分話し合いが可能であるということが分かったりすることがある。
とありました。
ウィキペディア フリー百科事典の『先入観』”有用性とネガティブな面”の説明の様に、自分の考えや判断が『先入観』に左右されてないか、または、『先入観』によって主観的になっていなかを意識的に見分けるコトもありのままに物事を見たり、聞いたりしようとする為に大切だと思いました。

ヨーガでは、その時の目の前の事象をクリスタルの様にありのまま映し出す心の状態が目指すべき心の状態と考えられてるそうです。
Posted by マロン☆ at 15:14│Comments(4)
│つぶやき
この記事へのコメント
先入観、いつも反省なの、わたし・・・
Posted by ふぅ太
at 2010年06月17日 23:00

>ふぅ太
先入観に囚われてないか気が付けたら、きっとそこから変わっていけると思う。先ずは、気付くことから・・・
先入観に囚われてないか気が付けたら、きっとそこから変わっていけると思う。先ずは、気付くことから・・・
Posted by マロン☆ at 2010年06月18日 13:54
まさに自己観察力ですね。私がヨガが好きなのも、そこです!
Posted by akiko at 2010年06月19日 06:41
>akikoさん
そうですね。自己観察。
自分で自分を観察しながら、自分と上手く付き合っていけたらいいですよね♪
そうですね。自己観察。
自分で自分を観察しながら、自分と上手く付き合っていけたらいいですよね♪
Posted by マロン☆ at 2010年06月22日 16:53